戦国の姫たちの
越前・若狭



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浅井三姉妹

 長女は豊臣秀吉の側室となった茶々(淀殿) 次女初(常高院)は京極高次(後に初代小浜藩主)の室となり、三女江(崇源院)は、後に徳川秀忠正室となった。

 天正元年に、父浅井長政(小谷城主)が、伯父織田信長に攻められ、小谷城は落城。その後母とともに伯父の織田信包の城(北伊勢の上野城、後に清洲城)で暮らす。なお兄にあたる万福丸は信長の命で処刑されている。
 その後、叔父信長が本能寺の変で憤死すると、母お市は柴田勝家と再婚。お市、三姉妹とも勝家の居城越前北ノ庄城に移る。しかし、勝家も羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、母お市は勝家と共に北ノ庄城で自害。茶々ら三姉妹は秀吉の保護を受けた。



長女 茶々(淀殿 よどどの)
永禄12年 - 慶長20年5月8日

 その後秀吉の側室となり懐妊し、産所として淀城を与えられ、ここで捨(鶴松)を生み、以後淀の方と呼ばれた。その後大阪城に移るが、鶴松は夭折する。文禄2年には拾(秀頼)を生み、慶長3年8月秀吉が病没すると、秀頼の後見人として豊臣家の実権を握った。
 慶長5年の関ヶ原の戦いのでは、西軍(石田三成方)によって包囲攻撃された大津城内にいる妹初と、秀吉側室で淀殿のライバルであった松の丸(京極龍子)の救出に尽力した。戦いは石田三成が徳川家康に敗れ、この結果豊臣家は大幅に減封となり、家康と対立した。
 その後徳川秀忠と妹江の子である千姫が秀頼の室として迎えられ、また家康と秀頼が二条城で会見するなど表面的には両者の和解も見られたが、慶長19年の方広寺鐘銘事件をきっかけに、大坂冬の陣が勃発、翌年の夏の陣で徳川勢に敗れ、淀殿と秀頼は大坂城内で自害して果てた。

次女 初(常高院 じょうこういん)
元亀元年 - 寛永10年8月27日

 天正15年秀吉の命で浅井家の主筋にあたる京極氏の当主で従兄弟の京極高次と結婚。高次は本能寺の変で明智に加担したが、姉(妹説のある)竜子が秀吉の側室(松の丸)となったため許され、近江高島郡を与えら、後には加増され大溝城主となった。
 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、大津城に籠城。開城に追い込まれたものの、西軍を足止めした功績で若狭一国8万5,000石がを与えられた。
 初はこの時、松の丸らと共に大津城内にいたが、北政所(ねね)や姉淀の尽力で無事城を出ている。その後夫とともに若狭小浜に移っている。
 小浜では最初後瀬山城と旧守護所に居住したが、夫高次はあらたに小浜城を計画し、城下町の整備に取り組んだ。
 慶長14年夫高次が亡くなると剃髪して常高院と号す。
 大坂の陣では両家の和議に尽力するも、結局、大阪城は落城し、姉淀は自害した。
 晩年の常高院は江戸京極屋敷で生活し、浅井三姉妹の中では最長命となる、寛永10年8月27日病没し、遺言により遺骸は若狭小浜に移され、荼毘に付された後常高寺に葬られた。

三女 江(崇源院 すうげんいん)
天正元年 - 寛永3年9月15日

 秀吉の命による最初の婚姻相手は佐治一成だが、離縁させられ、秀吉の甥にあたる豊臣秀勝と再婚。娘の完子が生れが、秀勝は病没。その後江戸幕府二代将軍徳川秀忠に再々嫁し、秀忠の正室となった。このため娘の豊臣完子は伯母の淀殿に引き取られ、後に九条忠栄の正室となった。(その後忠栄は関白に任官し、完子は従三位北政所となっている)


 秀忠との間には千姫(豊臣秀頼室)、家光(三代商将軍)、和子(後水尾天皇女御、明正天皇の母、後の東福門院)のほか2男5女を儲けた。
 なお娘の勝姫は福井藩主・松平忠直に、初姫は初の夫である京極高次の子京極忠高に嫁いでいる。但し、忠高と初姫の夫婦仲は良くなかったと言われる。
 寛永3年9月15日、江戸城西の丸で死去(54才)。法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」で死後従一位を追贈された。