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戦国の姫たちの
越前・若狭



越前若狭歴史回廊・別館[観光のふくい

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北ノ庄城址、天魔ヶ池

北ノ庄城址
(福井市中央1-21-17)

 天正3年8月、織田信長は越前一向一揆を制圧し、府中竜門寺城から一乗谷を経て28日豊原寺に移ったが、9月2日その豊原寺から、一乗谷に代わる新たな越前支配の拠点として、北 ノ庄に出向き、自ら縄張りを行い、柴田勝家を越前北ノ庄城主に定めた。
 ここから、越前支配を委ねられた柴田勝家による北ノ庄城築城が始まる。

 勝家の北ノ庄城は、現在の福井城と比較すると、本丸の位置が大きく異なっている。それは、吉野川と足羽川が交差する場所、現在の柴田神社の位置と言われている。江戸時代の記録のなかに「北庄城地之事」として、「柴田勝家天正十一年四月廿四日生害アルハ、今ノ鳩之御門南之舛形之所、古ノ天守ノ跡也」とあり、絵図で確認しても、柴田神社の位置に符合する。

 もっとも、結城秀康が新城築城の際、旧北ノ庄城を破壊し、本丸も別の位置に移したため、現在その面影を見出すことは難しい。したがってその全容の解明は今日では困難となっている。

 天正9年4月、北ノ庄を訪れたイエズス会のルイス・フロイスは、築城をみて「甚だ立派で、今大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て最も喜んだのは、城及び他の家の屋根が悉く立派な石で葺いてあって、其の色に依り一層城の美観を増したことである」と記録している。

 しかし、勝家の支配は永くは続かなかった。信長が本能寺に倒れると、秀吉との後継争いから、天正11年4月賤ケ岳の合戦となり、21日秀吉軍に破れ北ノ庄城に逃げ込むも、24日、清洲会議の後に勝家に再嫁した信長の妹お市とともに自刃し、落城した。

 この時秀吉は、戦況を小早川隆景に知らせるなかで、「柴田越州北庄居城事、城中に石蔵を高く築き、天主を九重に上せ候」と書いている。青光りする笏谷石で九層という壮大な天守閣が築かれていたことがわかる 

 なお、城址の柴田神社には資料館(無料)も併設されており、休日はボランティアが常駐している。

DSCF3639.jpg北ノ庄城址

DSCF3631.jpg北ノ庄時代の石積跡

sibata4.jpg明治期の城址と勝家石碑

sibata5.jpg城址の勝家像

iti.jpg      お市像

sansimai.jpg三姉妹像

天魔ヶ池 (福井市足羽山)

 北ノ庄城にたて篭る勝家を攻撃するために、秀吉が本陣を敷いた場所が、愛宕山(足羽山)の山頂天魔ヶ池付近とされている。
 この地には、現在、福井市自然史博物館が建立されているが、その屋上展望台からは足羽川右岸の北ノ庄本丸(現柴田神社付近)付近のみならず、市内中心部の全域を見下ろすことが出来、北ノ庄攻撃の本陣に相応しい場所といえる。

 隣接する段丘上には、福井市民によく知られている継体天皇の石像が建立されており、市民にも足羽山公園として親しまれているが、足羽山とよばれるようになったのは実は明治以降のことで、江戸期には愛宕山とよばれていた。

 天魔ケ池と秀吉については、江戸期に書かれた「越藩拾遺録」に「愛宕山の絶頂に在り。古昔は湖水満々たるが、今も其形残りて水尽る事なし。秀吉公柴田を攻られしとき、此辺に将几を居へられ城中火の手上るを見て悦喜あり」と記されている。
 秀吉の攻撃は4月23日より開始され、その日のうちに本丸を残すのみとなり、翌24日夕刻、勝家は妻のお市を殺し、自ら天守閣に上がり「腹の切り様を後学のために見ておけ」と告げた後、自刃したとされる。
 北ノ庄城本丸を偲ぶ遺構は充分ではないが、秀吉が陣を置いた池は、今も博物館の前に残っている。

tenma.jpg天魔ヶ池

sinai.jpg天魔ヶ池付近から見た北ノ庄城址方面

【北ノ庄城址(柴田神社)】

【天魔ヶ池】