戦国の姫たちの
越前・若狭



越前若狭歴史回廊・別館[観光のふくい

HOME > main10 > dat1003

実宰院、浅井氏侍女の墓

実宰院 (長浜市平塚町 149)
浅井長政姉ゆかりの寺で、お市・三姉妹の避難伝承地

 実宰院は、平塚という小集落の中ほどにある。寺伝では、鎌倉時代以前に創建された実才庵という天台宗の寺で、長政の姉にあたる阿久姫が出家して昌安見久尼と称した際に、当地の庄屋を務めていた平野左近助をして庵を再興させたと伝えられている。寺は小谷山実宰院と改称され宗派も曹洞宗に改宗し、現在に至っている。

 この寺が最近注目されているのは、お市と三姉妹に関係する。
 お市と三姉妹は小谷城落城の際、織田軍に救出され、その後伯父の織田信包のもと伊勢上野城(後清洲城)で暮らしていたとされる。上野城や清州城で生活していたことはほぼ間違いないであろうが、落城の際、どのようにして城を脱出したのかについては資料によって異なり、また一番信用性の高い肝心の『信長公記』には全く触れられておらず、実態は不明である。

 地元では実宰院にまつわる伝承として、通説とは異なる経過が伝わる。
 それによれば、長政は落城の際、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼。三姉妹と母のお市はともに城を脱出し、実宰院の見久尼を頼り、ここに匿われたとされている。
 この話が全く無視できないのは、実宰院が浅井長政の姉にあたる見久尼を中興の祖とし、後の秀吉時代には三姉妹との関係で豊臣政権との深い関係があったことを伺わせる文書が残っているからである。
 三姉妹がこの寺に拘わった理由、それはここが三姉妹の避難先であったからと解しても、そう無理ではないように思われる。

 見久尼は、非常に大柄な女性であったと伝えられ、信長軍が残党狩りで実宰院に侵入した時には、三姉妹を大きな法衣の袖の中に入れて隠したという話も伝わるが、これは伝承に尾ヒレがついたものであろう。

 なお、実宰院昌安見久尼天正13年(1585)に49才で死去している。

実宰院山門

実宰院境内・本堂

解説板

浅井家侍女の墓 (長浜市北野町)
お市・三姉妹の小谷城脱出に関わった侍女の墓

 実宰院には、浅井長政が小谷城落城の際、姉である見久尼に三姉妹の養育を依頼し、三姉妹と母のお市はともに城を脱出し、実宰院見久尼(長政姉)を頼り、ここに匿われたとされてる伝承が残っているが、この時、3人の侍女が随行したとされ、そのうちの1人とされる侍女の墓とされるものが残っている。


 場所は小谷城址東にあたる北野町で、「五先賢の館」から少し北に行ったところにある。現在も住民によって大切に管理されており、大河ドラマの影響であろうか、案内看板まで設置されている。


 この侍女の名は「盛秀」といい、脱出に際して母娘を古い野良着に着替えさせて実宰院まで無事届けたとされる。盛秀はその後、北野で生涯をおくったとされる。


 解説板によると、「盛秀」「禅定尼」「元亀四癸酉年」「四月四日」などの文字が刻まれているとのことである。落城が元亀4年9月1日であるから、伝承と日時があわない。江戸時代に著された地誌「淡海国木間攫」には「浅井長政北ノ方の墓ナリト」と図入りで記されているとされている。脱出に関わった侍女の墓かどうかは別にして、昔から浅井家とのかかわりが指摘されてきた墓石であることは間違いない。


 今日まで残っているのはそのことの裏付けているように思える。

「侍女の墓」全景

道路にも標識が出ている

【実宰院】

【侍女の墓】