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戦国の姫たちの
越前・若狭



越前若狭歴史回廊・別館[観光のふくい

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小谷城址を歩く

浅井氏三代居城・小谷城

 小谷城は、浅井氏三代の居城で、中世五大山城の一つとしても有名な城である。五大山城とは、同じ近江にある六角氏の観音寺城、越後の上杉氏の春日山城、能登の畠山氏七尾城、出雲の尼子氏の月山冨田城をさしている。
 小谷城の築城時期ははっきりしないが、大永4年(1525年)に浅井亮政によって築城されたと考えられている。その後久政、長政と浅井氏三代に渡り拡張整備されていった。

 城址は、姉川北の小谷山上にあり、ここからは湖北地域が一望でき、北国脇往還や中山道の要衝にあり、琵琶湖にも近く、要所に立地している。
 また、中腹から山上にかけて地形を巧みに利用した土塁・曲輪等の跡、中世には珍しい石垣の遺構が今なお残されており、当時の面影を偲ぶことができる。
 浅井氏を支援した越前朝倉氏とも関係が深く、中腹には越前の猛将朝倉宗滴が築いたとされる金吾丸、また浅井氏とともに織田信長に対峙した朝倉義景も、小谷城の山頂(大嶽)に城を構えており、これも遺構が残っている。

小谷城のアクセス、登山開始

 高速道路(北陸道)を敦賀から米原に向かって走ると、一番低い郭である出丸跡付近に設置されている「小谷城址」の大きな看板が目に入ってくる。これを横目で見ながら通り過ぎ、長浜インターで降り、国道365号を北上して小谷山に到着。インターからは10分程度の距離である。
 ただJRでのアクセスはあまり良くなく、車を使用する方が現実的。麓に10台程度の駐車スペースがある他、中腹にも数台程度の駐車スペースがあり、ここまでは車で乗り入れできる。

 季節がよければハイキングを兼ねて麓から徒歩で登るのも悪くないが、ここでは中腹まで車で入り、そこから小谷城址を探訪してみる。車を停めた中腹が金吾丸にあたる。
 戦国朝倉氏の初代となる孝景の末子で猛将として知られた朝倉宗滴が、大永5年(1525)浅井氏を「支援」するために築いた陣所の跡とされている。
 これと反対側に番所跡があり、そこから城の中枢部を目指し登っていくことになる。登山道はよく整備されており、高齢者や子供でもそんなに苦になることはない。遺構は番所跡から茶屋跡、馬屋跡と続き、馬屋跡付近には、石垣で囲われた方形の馬洗池といわれるものがある。
ここより少し登と首据石が残っている。浅井氏 が六角氏と争っていたときに、浅井家臣の今井秀信が六角側に内通したかどで殺害され、見せしめのためにその首をこの石の上で晒したとの伝承がある。

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jyosi.jpg山麓城址碑

kingo.jpg金吾丸案内板

110_03.jpg番所跡碑

110_04.jpg馬荒い池

kubi.jpg首据石

浅井長政自刃の地と本丸

 さらに進むと、右に入る赤尾屋敷の標識が立っている。位置的には、本丸の南東下部にあたる場所で重臣赤尾氏の屋敷があったところである。
 元亀3年、信長軍の攻勢の前に敗北を悟った浅井長政は本丸を出て、この屋敷に入って自刃する。その場所には浅井長政自刃の地の碑が建立されている。

 元の登山道に戻って先に進んだところが桜馬場と黒金御門の跡になる。
 桜馬場には浅井氏の供養塔も建てられている。
 黒金御門の先が千畳敷ともいわれる城内最大の郭「大広間」で、主殿の跡とされており、ここでは多数遺物も発掘されている。この大広間の奥に一段高く築かれた本丸址がある。その本丸の背後には深さで約10m、幅約15mにおよぶ巨大な堀切が残っており、見応えがある。但し、これを堀切と見るかどうかはちょっと意見が分かれるところであろう。

 堀切をとおり、中の丸を経て段郭を登ってくると、東側に土塁がある大きい郭にでる。これが京極丸である。大永4年(1504)に亮政が主君京極氏を迎えた所とされているが、実際に饗応したのは麓の浅井氏居館と考えられ、何故ここを京極丸と呼ぶのかは不明である。

 次の郭が小丸で、長政の父である主久政の隠居所があった場所である。信長方の秀吉によって隣の京極丸が落とされ、長政の居る本丸との連絡を絶たれた後、ここで自刃した。

 小丸の奥が巨石による野面積みの石垣で有名な山王丸である。小谷城の守護神、山王権現の祀ってあったところで、この崩れた石垣は小谷城でも一番人気のスポットとなっている。

110_05.jpg浅井長政自刃の地(赤尾屋敷跡)

110_07.jpg「大広間」跡

110_08.jpg本丸跡

110_09.jpg京極丸跡

110_11.jpg小丸跡

110_12.jpg山王丸・野面積みの石垣

朝倉氏ゆかりの大嶽城と朝倉軍の敗退

 朝倉氏ゆかりの大嶽城はここからさらに急峻な道を進み、小谷山の頂上(495m)に位置している。中高年にはかなりきつい登りとなる。夏は、草で周辺の地形を判別することはできなくなるので、登のであれば春先が良い。

 天正元年(1573)8月12日、朝倉氏の援軍が守備していた大嶽城は、麓(焼尾)で浅井軍が守っていた砦の守将が投降したのを契機に、雨の中、織田信長自身が数百人で守る大獄を電撃的に攻撃、これを落とし、さらに大獄城と小谷城の真下にあり、平泉寺玉泉坊が守備する朝倉方の城も降伏に追い込む。
 これで朝倉軍と小谷城は完全に分断された状態となり、木ノ本に布陣する朝倉軍本隊は浮き足だち、翌13日、態勢を立て直す間もなく一斉に敦賀に向って退却しはじめる。
 勢いで勝る織田軍はこの時を待っており、息をつかせず追撃に乗り出し、越前と近江の国境にあたる刀禰坂で退却する朝倉軍に追いつき、凄惨な掃討戦がここから敦賀の疋田まで繰り広げられ、一夜にして朝倉軍は壊滅に追い込まれてしまう。

 朝倉義景はわずかの近習に守られて、府中(現武生市)を経て一乗谷へと敗走し、ここからさらに大野に逃れるものの、自刃を強いられる。
 この刀禰坂の戦いの敗北が、朝倉氏の滅亡につながり、ひいては、同盟者朝倉氏を失った浅井氏もこれを追うように小谷状落城、滅亡へ追込まれた。

oozuku.jpg大嶽城址案内

110_13.jpg大嶽城址