戦国の姫たちの
越前・若狭



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京極氏とその遺蹟を訪ねて

京極氏とは

 京極氏の祖は近江源氏佐々木氏である。鎌倉時代初期に佐々木氏の惣領であった信綱は、息子四人に近江を分けて継がせた。
 このうち江北地区と京の京極高辻にあった京極館を継いだのが四男の氏信で、京極氏の祖となった。なお、この時に江南を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ六角氏の祖となっている。
 南北朝期には佐々木導誉(京極高氏)の活躍により、繁栄の基礎を固め、京極氏は江北の他に出雲などの守護職も獲得し、四職の家格一つとなった。

室町幕府で幕政を統轄したのが斯波・細川・畠山の3家で三管といい、侍所頭人(所司)に任じられる山名・一色・赤松・京極4家を合わせて「三管四職」という。


 応仁の乱でも京極持清が活躍するが、その死後、度重なる家督争いや浅井氏の台頭により衰退していった。京極高吉の時には、江北の支配権は浅井氏に完全に奪われていた。
 京極高吉の室は浅井氏娘(京極マリア)で、子に高次(後の小浜藩主)、高知(後の丹後藩主)、龍子(若狭守護武田元明室で後に豊臣秀吉側室松の丸)がいる。

京極氏の城と館 (米原市上平寺)

 京極氏はもともと柏原館を本拠としていたが、高清の代に柏原館を廃し、伊吹山南山麓の上平寺に新たに城館を築いた。その京極氏の城と館跡が米原市上平寺(旧:坂田郡伊吹町上平寺)に残っている。

 米原インタを下り、国道365号の沿って東に30分ほど進んむと上平寺集落に着く。集落から伊吹神社に向かう道が大手道で、集落の奥の山麓に位置する伊吹神社境内一帯が居館跡で、上平寺館若しくは上平館と称されていた。庭園跡も残っている。

 かつて、ここが北近江の政治・文化の中心であった面影らしきものは殆ど見えないが、この大手道の両側には重臣の館が並んでいたと思われ、曲輪跡が残っている。。
 庭園跡には、巨石や池跡が残り、室町時代の武家庭園として貴重な遺構と云われている。
 城は伊吹神社の鳥居の横から登る。主郭は標高670mの位置にあるが、地元の人により登山道が整備されている。この城は苅安城、苅安尾城などとも呼ばれる。
 城跡等の土塁・堀等は、この地が美濃との境にあたることから、当然のことながら浅井氏や朝倉氏によって改修されているが、遺構の基本的な形は保持されていると考えられている。

清滝寺徳源院 (米原市清滝288)

 京極氏の菩提寺である清滝寺徳源院には京極家歴代当主の墓碑・宝篋印塔が18基、墓所の下段には、それ以降の当主や分家の宝篋印塔14基が整然と並んで残されている。
 上段には道誉や高吉、下段には浅井三姉妹次女初の夫高次らの墓石がある。

 寺の資料によれば 京極家初代氏信の草創で、寺号も氏信の法号の清瀧寺殿からとられたとのことである。一時衰退した京極氏も19代の高次の時に再び大名として再興されたため、高次を京極氏中興の祖と位置づけて祀ってある。寛文12年、22代高豊は領地の一部とこの地を交換して寺の復興をはかり、三重の塔(県指定文化財)を建立し、院号も21代高和(丸亀藩初代)の院号から徳源院と改称したとされる。

 墓所は その折りに、付近に散在していた墓を一ヶ所に集め整備したものである。また裏にはこの時期ののものと思われる池泉回遊式庭園が残されており、県指定名勝となっている。


上平寺集落

京極氏館跡

京極氏庭園跡

清滝寺

京極家墓所上段

京極家墓所下段


【上平寺】

【清滝寺】