戦国の姫たちの
越前・若狭



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京極高次(浅井三姉妹の次女初の夫)

京極高次 永禄6年~慶長14年5月
(父京極高吉、 母は浅井久政の娘で長政の姉にあたるマリア)


 名門京極氏も浅井氏に湖北を下克上され、高吉の代で終焉をむかえるかに見えたが、子の高次の時、何度も危機にたたされながら、復活する。

 高次は、初め織田信長に仕える。名門京極氏にとって、斯波氏の臣(守護代)である織田氏の傍流のそのまた傍流の信長に仕えることは決断の要することだったのではなかろうか。
 その信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、湖北の旧領回復に向け妹婿の武田元明とともに光秀に荷担、元明は佐和山城を、高次は秀吉の長浜城を攻撃する。信長の家臣になりながら、家格からいって、本心では不本意だったことが影響したのかもしれない。
 ところが、山崎の戦いで羽柴秀吉によって光秀は敗北、秀吉側から厳しい追及を受ける身となる。

 しかし、姉(妹とする説もある)の龍子が、夫の武田元明が自刃を強いられた後、秀吉の側室(松の丸)となった事で高次は許され、天正12年に近江高島郡2,500石を与えら、その後加増を重ね、翌々年には高島郡で5,000石となった。
 天正15年には、秀吉の命で浅井三姉妹の次女初を正室としている。
 さらに九州攻めの功により近江大溝城一万石で大名となり、小田原攻めの功により近江八幡山城28,000石、文禄4年には近江大津城60,000石へと封じられた。
 姉(妹)龍子や室の初に依るもので、高次は陰で女性の尻の光で出世した蛍大名といわれていたが、京極家を再興にこぎつけたのは間違いない。


 しかし、関ヶ原の戦いで再び岐路に立たされる。高次は、始め西軍に属するも途中から東軍へと寝返り、大津城に立て籠もった。このため、毛利元康や立花宗茂軍に大津城を包囲攻撃され、最後は降伏開城し、剃髪して紀伊の高野山に入った。
 運命は尽きたかに見えたが、関ヶ原の戦いの後、家康は西軍軍勢を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を評価し、若狭一国8万5,000石へ加増転封され、さらに翌年には近江高島郡の内7,100石が加増された。


 小浜では、武田氏の後瀬山城と守護所を居城としたが、新たに雲浜に小浜城を築く計画を建て、城下町の整備に取組んだ。
 慶長14年5月に小浜城の完成を見ることなく、小浜にて47歳で病歿。跡は側室の子忠高がを継いで、浅井三姉妹の末娘で徳川秀忠の室となった江の娘初姫を室に迎えている。

近江高島郡大溝城跡

近江八幡山城址

大津城址碑

現在はその面影もない大津城近辺(浜大津駅)

忠高と初が居住した若狭守護館の跡(現空印寺)

忠高が着工した小浜城の跡

【大津城跡】

【小浜城址】