戦国の姫たちの
越前・若狭



越前若狭歴史回廊・別館[観光のふくい

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小浜城址 (小浜市城内1-7-55)
初の夫の京極高次が築城にとりかかる
PIC00004.jpg小浜城址
 慶長5年、関ヶ原の戦後、近江の大津城主であった京極高次が若狭一国8万5000石を領し、入部した。
 京極高次は浅井三姉妹の初の夫であり、浅井氏の主家にあたり湖北の守護家の出身である。本能寺の変のあと明智光秀に従い秀吉の長浜城を攻めたため 、追求される身となるが、妹の京極龍子(元の若狭守護武田元明の室)が秀吉の側室となったことで許され、関ヶ原の合戦時には大津城主として6万石を領していた。
 関ヶ原の戦に際しては、東軍に属し大津城に篭城した。西軍に囲まれ、関ヶ原の戦いの前日には開城したが、畿内で東軍として行動したことにより、若狭一国を与えられた。

 高次は、はじめ若狭守護武田氏の後瀬山城と守護所に入ったが、居城を海岸沿いの蜘蛛の浜(下竹原)に移す計画を立て、新たに城下町割りを行った。ついで高次の子忠高は、寛永元年、敦賀郡2万1000石を加増され、領地高は合計11万3500石となったが、寛永11年閏7月、出雲松江に転封となり、京極氏による若狭支配は2代で終わりをつげた。このため高次によって計画された小浜城であったが、京極氏の時代には完成を見ることはなかった。

 そのあとへは老中の要職にあった酒井忠勝が武蔵川越10万石から入部し、築城を続行し、天守閣も建立し、寛永19年完成した。
 その後幕末まで15代230年にわたり酒井氏の支配が続いた。

 城は、小浜湾の海岸沿いで、北川と南川に挟まれた中州に築かれている。二本の川を堀に利用しかつ海に面した水城といえる。

 明治2年二の丸から出火した不審火により焼失し、城郭としては本丸部分が残るだけである。
 本丸の跡は、現在酒井忠勝を祀る小浜神社の境内となっているが、境内の西南部分には、三層の天守閣が建てられていた天守台が現存している。

PIC00002.jpg本末内側から見た石垣
PIC00009.jpg本丸外側から見た石垣
PIC00005.jpg天守台上段
PIC00001.jpg本丸跡の小浜神社
siro.jpg戦前の城址風景

【小浜城址】