武田元明との隠棲地神宮寺、祈願寺であった弘誓寺
神宮寺 (小浜市神宮寺30-4)
若狭武田氏祈願所、武田元明夫妻隠棲の地
神宮寺
神宮寺は和銅7年泰澄大師弟子滑元による創建の伝承を有し、はじめ神願寺と称し、近世までは若狭鎮守一二宮(若狭彦神社・若狭姫神社) の神宮院(付属寺院)であった。かつては二十五坊を誇ったとされ、現在も周辺に不動坊などの字名が残っている。天台宗で号は霊応山。
本堂は、室町末期の代表的建造物で、単層入母屋造檜皮葺で重要文化財、天文3年朝倉義景によって再建された。また神宮寺北門にあたる仁王門(間口6.3m、奥行き3.6m、棟高5.5m)も重要文化財である。
神宮寺は、一般には3月2日の「お水送り」で知られている。奈良の東大寺二月堂に香水を送る神事である。
若狭武田氏当主武田元信がここを祈願所として以来、若狭守護武田氏の代々の祈願所となった。
戦国末期、最後の武田氏当主武田元明は、朝倉氏に拉致(保護)され、一乗谷に居住したが、天正元年8月、 越前朝倉氏は織田信長の手により滅亡 。この時、元明は信長に同心した若狭武田氏の被官人らの懸命の嘆願により赦免され、若狭へ帰国し、ここ神宮寺に蟄居したとされる。
神宮寺では龍子は共に暮らすことができ、伝承では2男1女を設けたとされる。近くには龍子の産所となった民家や産湯に使われた池とされる跡が残っている。現存している文書から見て、子があったかどうかは別として、龍子となんらかの関係があったことは間違いないと思われる。
この時代、元明は蟄居とはいえ実際にはしばしば上洛し、かつての名門守護家の末裔として、名だけとはいえ、若狭被官人を束ねる地位にあった。元明と龍子にとって一番平穏な時期であったかも知れない。
しかし、天正11年本能寺の変が起きると、元明は旧領奪還の好機と見たのか明智光秀に加担。兵を起こし、丹羽長秀の佐和山城を攻め落とした。このため明智滅亡の後、丹羽長秀に海津の宝幢院に呼び出され、7月19日自害を強いられ、ここに若狭武田氏は滅亡した。伝承では2人の男子は謀殺されたとも匿われたとも言われる。
なお、龍子はその後秀吉の側室となり、実家の京極氏の再興をなしとげる。
弘誓寺 (若狭町東黒田7‐14)
京極龍子(松の丸)の祈願寺
弘誓寺
若狭33観音霊場第八番札所で、慈眼山を号す曹洞宗の寺院である。
伝承によれば、大同2年に重安と称する者が船津山に如意輪観音像を得、同4年に現地に堂宇を建立したのが初めてとされている。
最後の若狭守護武田元明の正室で、元明死後に豊臣秀吉の側室となった松の丸(京極龍子)の祈願寺で、松の丸の寄進により、観音堂が建設されたとされ、堂は文禄4 年に落慶している。
本尊の二臂如意輪観音菩薩座像は鎌倉時代~南北町時代の作とされ、像高38cmnで33年に1度しか開扉されない秘仏である。昭42年3月に町指定文化財とされており、この他、室町時代初期とされる多聞天立像が同じく昭42年3月に、南北町時代~室町時代作とされる金剛力士(仁王)像が昭59年5月にそれぞれ指定を受けている。
この町指定文化財である2 体の金剛力士像が安置される仁王門をくぐり、石段を登ると荘厳な観音堂で、右手には覆堂、奥には平成19 年に落慶した本堂がある。
松の丸がこの寺を祈願寺としたのは、武田元明との間にできた次男をここに匿ったからとも言われる。わざわざこの寺を祈願寺とし、多額の寄進を行うなど何らかの関係はあったことを推測させるが、伝承の域を出ない。
【神宮寺】
【弘誓寺】