元亀4(1573)年7月、織田信長は浅井・朝倉攻撃のため近江に出陣、浅井氏からの救援要請を受け朝倉義景は、自らが総大将となり一乗谷を進発するも、朝倉景鏡など重臣の一部が出陣を拒否し、悲壮な出陣であったとされる。
18日には敦賀に着陣し、ここにしばらく陣を張るが、この間にも湖北では浅井の武将数名が信長方に寝返るという事態も発生し、義景はますます窮地に追い詰められる。
浅井氏は朝倉軍の江北への進発を要請し、朝倉軍は形勢不利な中で出撃するかどうか軍議は分かるが、8月6日義景の判断で多くの反対を押し切って柳ヶ瀬、さらに木ノ本まで軍を進めた。その数2万といわれている。
ところが8月12日になって、江北での朝倉氏の拠点大獄(おおずく)山城と丁野(ようの)城が信長軍の猛攻にあって陥落し、朝倉軍本隊と小谷城は完全に分断された状態となった。浮足立った朝倉軍は態勢を立て直す間もなく、翌13日一斉に敦賀の疋田に向って退却を開始。
この時を待っていた織田軍は、信長自身が先頭で追撃に乗り出し、越前と近江の国境にあたるこの刀禰坂で退却する朝倉軍に追いつき、凄惨な掃討戦が繰り広げられた。
尤も、あまりに早い事態の進展に、 織田軍も充分に対応できず、信長から追撃の用意を命じられていた滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、木下秀吉らも油断し、義景と朝倉軍の追撃を最初に仕掛けたのは信長自身であったため、叱責を受ける羽目になっている。
朝倉側も、殿(しんがり)を務めた山崎吉継をはじめ朝倉掃部助など少なくない武将が義景を一乗谷に逃がすため、追撃を受けながら反転し、必死に踏みとどまって戦い、一度は信長軍を押し返した。
しかし、浮き足だち逃亡する軍を統制することは不可能で、大半は峠付近にて討死にした。勢いを増す織田軍に、次々と朝倉兵は討ち取られ、朝倉軍団の中核部隊は、ほぼ壊滅に追い込まれた。記録では、朝倉方3千余りが討ち死にしたとされている。
また、何とか敦賀の疋田城まで退いた朝倉軍も、14日早朝からの織田軍の猛攻に、朝倉景健や景胤、詫美越後が果敢に切り込むが、やがて壊滅していった。
景健、景胤はかろうじて脱出に成功するも、この間の戦闘でも多くの武将が討ち死にした。
義景はわずかの近習に守られて、一乗谷へと敗走。その後大野に逃れたが自刃に追い込まれ、朝倉氏は滅亡した。
朝倉氏を滅亡に追い込んだ信長は、湖北に引き返し、小谷城を落とし、浅井氏もここに滅亡することになる。