お市・三姉妹も通った勝家ゆかりの栃ノ木峠、九十九橋
北ノ庄城主となった柴田勝家は、越前を治めるにあたり、峠など道路の改修や、北ノ庄の中心部を通る足羽川に九十九橋を架橋するなど、現代に繋がるいくつかの土木工事を行っている。
本能寺の変後、お市が柴田勝家に再嫁したさいには、お市、三姉妹揃って北国街道を通り、勝家の北ノ庄城に移ったが、この時、勝家が改修した栃の木峠や九十九橋を通った。
栃ノ木峠(南越前町)
栃ノ木峠
栃ノ木峠は越前(福井県)と近江(滋賀県)の国境、標高は538mにある峠である。「酌子峠」(しゃくしとうげ)、「虎杖崩」(いたどりくずれ)ともいわれるが、峠の頂上付近に栃の木が群生していたため、この名前が一般化したとわれている。今も頂上に樹齢500年と言われる大木が残っている。
現在は国道365号が通っているが、道筋は大きく変わっており、越前(福井県)側では古道の痕跡は殆ど残っていない。往時は現存する栃ノ木の大木の側をまっすぐ板取に向けて下ったとされている。
この峠の北に位置する木の芽峠と並んで、北国と機内を結ぶ重要な峠であったが、こちらは中世までは獣道に近いもので、間道として利用されていた。
中世の源平合戦や、南北朝期に新田義貞が京を没落するさいには、塩津から敦賀に向かう街道(北陸道)が斯波(足利)軍に押さえられたため、義貞は一旦この峠を超えて越前に入り、再び木の芽峠を越えて敦賀に入るという大迂回を余儀なくされている。また、戦国期の一向一揆の際にもこの峠は利用されている。
天正3年(1575)9月、二度目の越前侵攻で一向一揆を平定した織田信長は、論功行賞で越前8郡49万石を柴田勝家に、大野郡を金森長近と原政茂に、府中(武生)周辺を前田利家、佐々成政、不破光治に委ね、勝家を北ノ庄において北国方面の統括を命じた。
北ノ庄城主となった柴田勝家は、織田信長の居城である安土城と北ノ庄をを最短で結ぶために、この峠道を幅3間(5.5m)の道路に拡幅し、峠の大改修を行った。これ以降、北国街道として一段とその重要性を増した。
賤ヶ岳の合戦で、柴田軍が総崩れの状態となった際、小姓頭であった毛受勝照が勝家の金の御幣の馬標を受け取り、身代わりとして奮戦している間に、勝家はこの栃ノ木峠を越えて越前北ノ庄へと敗走した。
九十九橋
(福井市照手1丁目、つくも1丁目))
九十九橋現況
九十九橋付近は古くからの交通の要所であった。ここに架かる橋は戦国期の朝倉氏時代にすでに存在していたが、一般には天正3年、柴田勝家によって架けられたとされている。それは勝家がこの橋を「半木半石」(北側半分が木材、南側半分が石材)と特徴ある架け方をした事に由来している。
何故、勝家が「半木半石」で架橋したのかははっきりしない。城の近くを木製にすることにより、すぐに破壊できるようにし、敵の侵入から防御するためとの説も唱えられている。案外、城下の木材商と足羽山麓の石工のバランスをとっただけかも知れない。
この橋の構造は江戸時代も変わらず、九十九橋(米橋、大橋とも呼ばれた)は奇橋、名橋として全国に知られるようになった。福井藩は橋の北側には「照手門」、南側には「小石原門」を設置し、要所に相応しい管理下に置いていた。
架け替えは江戸時代に定期的に行われ、明治7年にも最後の「半木半石」構造で架け替えられたが、明治42 年に、過去10回以上にわたる半木半石構造に終止符を打ち、木造トラス橋となった。
この時、廃棄される運命にあった橋桁の石材で、木製に代えてあらたな「里程元標」が作成され九十九橋北詰に建てられた。現在も北側の堤防を少し入ったところに石碑はあるが、これは復元したものである(寸法や形状は異なる)。九十九橋はその後昭和8年、昭和61年に架け替えられ現在に至っている。
なお元の「里程元標」は、九十九橋に関係の深い勝家に因んで、勝家の菩提寺西光寺に保存されている。
【栃ノ木峠】
【九十九橋】