戦国の姫たちの
越前・若狭



越前若狭歴史回廊・別館[観光のふくい

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京極龍子(松の丸)の生涯

01.jpg京極氏累代墓塔
 京極龍子、若狭守護武田元明の正室で、後に豊臣秀吉の側室となり、松の丸殿とか西の丸殿と呼ばれた女性である。戦国時代を扱った小説、テレビ、映画に欠かせない人物である。

 北近江の守護家の京極氏の出身である。父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。弟(兄とする説もあり)に京極高次 、同じく弟に京極高知がいる。
 京極氏の名は、かつて京都の館が京極高辻にあったことに由来する。山名・一色・赤松の諸氏に並んで四職の一つに数えられるほどの名門となった。しかし応仁の乱後、家督争いで衰退し、やがて浅井氏に湖北を押領されるにいたる。
 嫁ぎ先の若狭武田氏もこの頃には重臣達の離反が重なり、守護の権威は低下。名ばかり守護の状態であった。とはいえ、元明は若狭守護武田義統の長子、母は将軍足利義晴女で、まさに名門同士の婚姻であった。

tatu02.jpg若狭武田氏守護所跡(空印寺)
 しかし、守護館での平穏な生活は長くはつづかなかった。
 永禄11年8月、越前朝倉氏は、守護の権威が低下し混乱する若狭に本格的に進攻、元明は越前へ拉致(保護)されてしまう。朝倉氏は、名目は武田氏との盟約に基づく「保護」であるが、実際は若狭を支配するための行動であった。
 龍子がこの時どうしたのかはっきりしない。ただ翌年、連歌師里村紹巴が小浜を訪れ、連歌会や源氏の講釈会を開いた際、龍子は元明祖父の武田信豊とともに 小浜守護館で暮らしていたことが確認されている。夫が拉致(保護)された越前朝倉氏の一乗谷には同行しなかったのか、あるいは、里村紹巴の小浜訪問に合わせて、一乗谷から一時帰国したのかは不明である。

tatu03.jpg隠棲地の神宮寺
 元亀4年、今度は朝倉氏が織田信長によって、滅亡に追い込まれる。夫の元明は織田軍の先鋒として一乗谷に突入した若狭衆によって、救出保護され、若狭神宮寺に蟄居する。
 しかし実際にはしばしば上洛するなど、かつての名門守護家の末裔として、若狭被官人を束ねる名目上の地位にあったとかんがえられる。
 神宮寺では元明と龍子は共に暮し、伝承では2男1女を設けたとされる。
 天正9年には、大飯郡を支配していた旧被官人である逸見昌経が病没し、信長から彼の遺領のうち三千石を与えられている。

tatu05.jpg夫元明墓(海津宝憧院)
しかし、またもや運命の歯車が狂いはじめる。
 天正11年6月本能寺の変が起きると、夫元明は旧領奪還の好機と見たのか、明智光秀に加担。兵を起こし、丹羽長秀の佐和山城を攻め落とした。このため光秀滅亡後に丹羽長秀に海津の宝幢院に呼び出され、7月19日自害を強いられ、ここに若狭武田氏は滅亡した。
 一方、実家の京極家を嗣いだ弟(兄)の京極高次も光秀に同心し、秀吉の長浜城を攻撃していた。このままでは武田氏同様、京極家も滅亡に追込まれるのは必至で、龍子の進退は極まったといえる。
 しかし、やがて龍子は秀吉の側室となって再び歴史に現れる。名門の血筋と美貌のなせるところであった。龍子の願いどおり、天正12年京極高次は秀吉に許され、近江高島郡2,500石を与えられた。その後加増され大溝城も与えられ大名となった。加増はその後も続き、文禄4年(1595年)には近江大津城6万石に封じられた。

tatu07.jpg京・賛州屋敷付近
 秀吉側室となったの龍子は、聚楽第時代は西洞院(賛州屋敷)に居住した。大坂城では西の丸に居住しで西の丸殿と呼ばれ、伏見城では松の丸に移り松の丸殿と称された。茶々(淀殿)との席次争いは有名であるが、背景には「三管四職」の京極氏の家格があってのことである。茶々(淀殿)の浅井氏は京極氏の被官人であった。なお茶々(淀殿)と松の丸(龍子)は従姉妹の関係にある。
 小田原城や名護屋城には茶々(淀殿)とともに秀吉に呼ばれている。

tatu06.jpg大津城址
 秀吉の死後、弟(兄)京極高次の居城大津城に身を寄せたが、関ヶ原の合戦時、高次は東軍(徳川方)に味方したため、大津城は西軍によって包囲、攻撃を受けることとなる。この時、松の丸(龍子)だけでなく、高次の正室である初も在城していた。
 西軍の猛烈な攻撃の前に、大津城は開城を余儀なくされ、関係者ともども城を退出した。しかし、合戦後、徳川家康は西軍軍勢を大津城に引きつけた功績を評価し、高次は松の丸(龍子)ゆかりの若狭一国8万5,000石へ加増転封となっている。
 松の丸(龍子)は、その後は再び西洞院に居を構え、北政所や茶々(淀殿)と親交を続けていた。

tatu10.jpg誓願寺(新京極)
 その松の丸(龍子)の人生で、誓願寺の整備は欠かせない事蹟である。
 天正19(1591)年、秀吉により京の町割り(区画整理)が行われ、各寺院は寺町に移転を余儀なくされる。誓願寺は、元誓願寺町(現在の東町、仲之町あたり)にあったが、天正元年の火災により荒廃が激しく、移転再建は大きな負担であった。危機を救ったのが松の丸をはじめ京極氏であった。慶長2年、境内地6千坪(表門は寺町六角、裏門は三条通に北面)、壮大な伽藍を備え、京都有数の巨刹の規模を有して落慶できたのは、松の丸(龍子)をはじめ京極氏の支援の賜であった。因みに誓願寺の寺紋は、京極氏の家紋「三つ盛り亀甲」に由来する。

tatu12.jpg豊国廟・松の丸墓 松の丸(龍子)と請願寺に関しては、もう一つ特記すべきことがある。
 元和元年、大坂夏の陣の際、豊臣秀頼は当時8才の嗣子国松を大坂城から逃がしたが、豊臣氏滅亡後見つけ出され、5月23日六条河原で処刑された。国松は、幼少時代から若狭京極家に預けられており、京極家との関係は深い。このため、松の丸(龍子)は国松の遺体を引取り、誓願寺の境内に埋葬した。また自身の墓もその隣に建立している。

 時が流れ、明治維新後、天皇が東京に去り、京都は衰退の一途を辿る。京都府は、再興に向けて殖産興業に力を入れるとともに、寺町付近の寺院の境内を接収し、新京極通りを拓き繁華街とした。
 この結果請願寺も広大な境内の縮小を余儀なくされ、松の丸と国松の墓は寺町通りに取り残される結果となった。このため、京極氏関係者の手によって、2人の墓は秀吉が眠る豊国廟へと移された。

後瀬山城址と若狭守護館跡はここ
武田元明との隠棲地神宮寺、龍子の祈願寺弘誓寺はここ