戦国の姫たちの
越前・若狭



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お市と浅井長政、柴田勝家

浅井長政(あざいながまさ)
天文14年 - 天正元年9月1日

 北近江の戦国大名。浅井家の3代目にして最後の当主、室は信長妹のお市
 天文14年に浅井久政の嫡男として生まれる。
 浅井氏は北近江の守護である名門京極氏をに下克上を行い、湖北を支配するもその後父久政の代には南近江の守護である六角氏との合戦に敗れ、臣従を余儀なくされた。
 このため長政は六角義賢の一字をとって賢政を名乗り、六角氏家臣平井定武の娘との婚姻も強いられた。
 このような状況に不満を持つ家臣達は久政に隠居を強要し、長政が家督が嗣いだ。
長政は「賢政」の名と「平井定武の娘」を六角氏に返上し、また六角軍を相手に戦い六角氏の支配から離反した。
 長政はその後、尾張の信長の妹市と婚姻し、織田氏と同盟
 永禄11年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛する際には、長政も義昭を守護し支援した。しかし元亀元年、信長が徳川家康と共に朝倉攻撃のために越前に侵攻すると、長政は信長から離反し、織田徳川軍の背後を突いた。
 この後、長政は朝倉氏とともに信長に対抗し、姉川で合戦するも勝敗はつかず、志賀の陣では信長を窮地に追い込むも和睦、その後は信長の各個撃破の戦術の前に追い詰められる。
 天正元年は朝倉氏、浅井氏とも最後となった年である。
 7月、信長は大軍で湖北を攻め入り、長政は朝倉義景に援軍を要請。朝倉義景も2万の軍を率いて湖北に進出するも情勢不利と判断し撤退。この時信長は撤退する朝倉軍を追撃し越前と近江の境である刀禰峠で朝倉軍を壊滅させ、そのまま越前に侵攻し朝倉氏を滅亡に追い込むと、軍を再び湖北に返し小谷城を包囲した。
 孤立無援の小谷城は落城に追い込まれ、長政は城内の赤尾屋敷で自刃し、ここに浅井氏は滅亡した
 なお、長政室のお市と三姉妹は助けられたが、嫡男の万福丸は信長の命で処刑された。

お市
(天文16年?- 天正11年4月24日)

 兄・信長の命により織田家と近江浅井家の同盟を結ぶため浅井長政と婚姻し、3人の娘(茶々、初、江)と、長男の万福丸、次男の万寿丸を生んだとされるが、男子については異説もある。
 長政と市の夫婦関係は仲睦まじかったといわれるが、元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景攻撃のため敦賀(金ヶ崎)に侵攻、これにより浅井家と織田家の友好関係は破綻した。
 この時、市は兄信長に袋の両端を縛った小豆袋を陣中見舞いに送り、浅井の離反と挟み撃ちの危機を伝えたとされるが、伝承の域を出ない。
 越前攻めは、当初織田・徳川軍が優勢であったが、この長政の離反で北近江からの挟撃ちという危機に追い込まれた。信長は朽木越えで京へ逃げ延びたが、この時の供はわずか10人程度であったとされる。有名な金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)である。
 浅井氏滅亡後は、清洲城にて兄の織田信包の庇護を受け、三姉妹と共に過ごしていたが、本能寺の変で兄信長が憤死、その後の清洲会議で柴田勝家に再嫁することとなった。
 お市と三姉妹は、勝家の城であった越前北ノ庄城に移ったが、その勝家も賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れたため、勝家と共に北ノ庄城内で自害した。
 辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」で墓は福井市の西光寺に勝家とともにある。菩提寺は福井市の自性院で戒名は自性院微妙浄法大姉。

柴田勝家(しばた かついえ)
?- 天正11年4月24日

 織田信長の重臣として著名であるが、出自ははっきりしない。
 斯波氏の一族の出とも言われるが資料はなく、尾張の土豪出身と考えられる。
 信長の父信秀に仕え、次第に頭角を現し、信秀死後は信長弟の信行の家老として仕え、信長の排除を試みたが敗れた。信行が二度目に謀反を企んだときには信長に事前に通知し、この結果信行は討伐され、以後は信長の家臣となった。
 信長が足利義昭を擁立するころから、信長の重臣として活躍し多くの武功を挙げた。
 天正元年の越前攻めで朝倉氏を滅亡させた後、信長は朝倉旧臣前波吉継を越前の守護としたが、朝倉旧臣間の争いで一向一揆が台頭、越前は一揆持ちの国となった。
 この状況をみて信長は再度越前に侵攻し、一向一揆を平定。越前国八郡49万石は勝家に与えられ、勝家は北ノ庄城を築く。また前田利家、佐々成政、不破光治らが信長の命で与力となった。勝家は北陸方面軍総司令官となって、一揆持ちだった加賀、越後の上杉勢に当たることとなった。
 天正5年上杉謙信が加賀にまで進出し七尾城が陥落、手取川で上杉軍に攻撃されるも、翌年謙信が死去すると、越後勢に圧力を加えた。天正8年には勝家は一向一揆拠点金沢御堂を滅ぼし、加賀一向一揆を制圧した。
 天正10年6月本能寺の変で信長が横死した時には、上杉軍と対峙していたためすぐに京に向かうことがでず、秀吉に遅れをとった。
 このためその後の織田氏の後継者問題では秀吉に主導権を奪われ、信長後継は勝家が推す信孝ではなく、秀吉の推す信長の嫡孫三法師に決まる。遺領配分について、秀吉はそれまでの播磨に加えて山城、河内、丹波を領し、勝家は従来の北国に加えて、北国から京、岐阜への通路としてこれまで秀吉が領していた長浜を押さえ、勝家は養子勝豊を長浜城に入れた。信長の妹のお市(浅井長政室)は勝家のもとに再嫁することが決まり、三人の娘(茶々、初、江)ともども北ノ庄に赴いた。
 その後勝家は滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉に対抗するが、天正11年4月の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前へ敗走。北ノ庄城は秀吉に包囲され、4月24日お市とともに自害した。 辞世の句は「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」で、墓はお市とともに菩提寺の西光寺(福井市)にある。