戦国の姫たちの
越前・若狭



越前若狭歴史回廊・別館[観光のふくい

TIT_LFm.jpg

HOME > main5 > dat502

信長危機一髪・金ヶ崎の退き口(国吉城、手筒山城、金ヶ崎城)

 信長の越前侵攻は、朝倉氏を滅亡に追い込んだ元亀4年(天正元年)と越前一向一揆を殲滅させた天正3年8月の2回の他に、その前哨戦ともいうべき戦いがあった。
  「金ヶ崎の退き口」として、信長が深刻な危機に陥った元亀元年の越前侵攻である。

 元亀元年2月末、上洛した信長は越前侵攻(名目は若狭討伐)の準備を進め、4月20日徳川軍を加え、大軍で若狭討伐(本音は越前)を目指し近江坂本を出陣した。

国吉城 (三方郡美浜町佐柿)
kuniyosi.jpg国吉城主郭跡
 当時若狭守護であった武田元明(京極龍子の夫)は、朝倉氏に保護(拉致)され、一乗谷に居住していたため、武田一族や一部の被官人は親朝倉・反信長の立場にたっていたものの、粟屋氏など重臣の一部は反朝倉で信長に通じていた。
 信長は、湖西を通って、若狭から敦賀に向け一気に軍団をすすめると、24日には若狭と越前の国境にある粟屋越中守勝久の居城である国吉城(美浜町佐柿)に入城した。
 粟屋勝久は、若狭守護武田氏の譜代の臣であったが、永年にわたって主人武田氏に反旗を翻し、武田氏の要請でこれを押さえこもうとしていた越前朝倉氏にも、国吉城に籠城し対抗していた。
 城は、佐柿の東部、標高197.3mの山頂から北西に連なる尾根に築かれ、尾根の東西は急峻な天然の要害となっており、北は低い尾根で天王山と連なり、その低い部分に椿峠が通っている。
 越前・若狭の国境を統治するには最適の地であった。
 信長はこの城に入り、ここで軍議を凝らしたとされている。また永年にわたって朝倉氏に対抗した粟屋勝久の功績を賞賛したといわれてている。

天筒山城
(敦賀市手筒)
tedutu.jpg手筒山頂上
 国吉城を出た信長は、自信満々兵を推し進め敦賀に入り、朝倉氏の手筒山城、金ヶ崎城を正面にみる妙顕寺に陣を構える。
 天筒山城は中世の戦いの舞台となった金ヶ崎城の枝城で、金ヶ崎の南の天筒山(171.3m)に構築されている。
 金ヶ崎城ほど有名では無いが、城の堅牢さでは金ヶ崎城を上回ると考えられ、一体となってその機能が発揮できる構成である。
 主郭からは敦賀湾はもとより、敦賀市内、旧北陸道、さらに金ヶ崎城の全容も見渡せ、こちらが本城と言ってもいいくらいである。稜線伝いに金ヶ崎城に繋がっている。

 25日、信長は、この要害の地であった手筒山城に猛攻を加え、双方で数千人を超える死者を出す激戦の末これを陥落させた。
 守備にあたっていた金ヶ崎城主(敦賀郡司)朝倉景恒は、陥落後、金ヶ崎城へ兵を退いた。

金ヶ崎城
(敦賀市金ヶ崎町1)
kane01.jpg金ヶ崎宮
 金ヶ崎は、敦賀平野の北東部に位置する海抜86m中世の山城で、天筒山から北西に延びる尾根が敦賀湾に突き出て小半島をなしている部分に位置する。
 源平合戦の時に城が築かれたのが最初とされているが、ここが有名になったのは、「太平記」の時代、新田義貞がこの城に籠もり、足利軍と激戦を繰り広げたからである。「梅松論」は「無双の要害」と記している。いまでも堀切跡など遺構が残っており、歴史ファン必見の地ある。
 朝倉氏の時代には、敦賀には郡司が置かれ、この城は敦賀郡司の居城であった。
 金ヶ崎へ陣を退いた朝倉景恒に、信長は城を明渡すよう説得、景恒はこれを受入れたため翌26日ついに開城させることに成功した。

金ヶ崎の退き口

 金ヶ崎城を奪取した後、信長軍の一部は木ノ芽峠を越え、いざ朝倉氏の本拠・一乗谷へ、という矢先の28日、信長のもとに江北の浅井長政が反旗を翻し、海津に進出、疋田方面から織田軍の背後を塞いだという報が入った。朝倉氏と浅井氏は永年の同盟関係にあったが、妹のお市を長政に嫁がせた信長は、義弟長政が朝倉に味方するなどとは予想もしていなかった事態であった。信長妹お市が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り、長政の裏切り、挟み撃ちの危険を知らせたと言う逸話は、この時の話である。もちろん、伝承の域をでない。

 しかし、ぐずぐずしていると退路を絶たれて、「袋の鼠」となりかねない状況に陥り、殿(しんがり)に木下秀吉などを置き、朽木氏の支援を得て、ほとんど身一つ、命からがら敦賀から朽木越えで京都へ脱出する羽目になる。
 世に言う「金ヶ崎の退き口」である。
 30日、京に辿りついた時、信長の供回りは十人程度であったといわれている。

 その後岐阜に戻った信長は、報復に燃え、直ちに江北浅井討伐の準備にとりかかり、6月19日岐阜を出発、湖北に軍を進めた。

 28日の姉川の戦い(野村・三田村合戦)では、朝倉・浅井連合軍との激突するが、しかし勝負はつかず、その後元亀4年まで朝倉・浅井連合軍と対峙を余儀なくされるのである。

jyokan.jpg国吉城麓の城主居館跡の石積
siryokan.jpg国吉城資料館
miru.jpg手筒山城跡から金ヶ崎を見る
mihari.jpg手筒山城の主郭北側見張り台
kane05.jpg金ヶ崎城址堀切跡

【国吉城址】

【手筒山城址、金ヶ崎城址】