信長越前侵攻の本陣(龍門寺城、豊原寺)
龍門寺城跡 (越前市本町)
龍門寺城跡
龍門寺は正安元年(1299)に悦巌崇禅(えつがんすうぜん)の開創と伝えられる。
中世の寺院と城砦は兼用されることも少なくないが、龍門寺城も府中の中心から少し南寄りの平城として、越前支配の要衝として軍事上何度か登場する。
元亀4年(天正元年)8月、刀禰坂の戦いで朝倉軍は決定的な敗北を負い、朝倉義景は敦賀、府中を経て一乗谷へ敗走する。信長はこれを追って越前に侵攻、ここに陣を移して朝倉討伐の軍勢を指揮した。
朝倉義景の自刃で、朝倉氏は滅亡するが、信長は越前支配を降伏した朝倉旧臣に委ね、越前を去ると、今度は一向一揆が越前を席巻し、信長に対抗した。
天正3年8月、信長は一向一揆討伐のための軍を率いて再び越前に侵攻、一旦敦賀に陣を置いた。10万余の軍勢で攻め込んだ信長は、一向一揆を破り追撃し、 敦賀から再びここ龍門寺に陣を構えた。「今府中の町は死骸ばかりで足の踏み場もない」との有名な京都所司代村井貞勝宛ての信長の手紙はここから書かれたものである。
現在、龍門寺境内の南側には土塁や堀跡が残されており、武生の中心部でありながら寺を中心に起伏に富んだ地形が残されている(堀跡は墓地に利用されている) 。
豊原寺跡 (坂井市丸岡町豊原)
豊原寺跡
豊原寺は白山豊原寺と号し、平泉寺と並ぶ白山信仰の巨刹であった。「白山豊原寺縁起」によれば、大宝2(702)年「越の大徳」泰澄により開かれたとされ、戦国期には多数の僧兵を擁して、周辺には僧坊が建ち並び、「豊原三千坊」と呼ばれるまでに勢力を伸ばした。
元亀4年(天正元年)8月20日、朝倉義景は自刃、朝倉氏は滅亡に追い込まれる。しかし一向門徒は無傷のまま残り、信長が引き上げると、朝倉旧臣の勢力争いを引き金にして、一向門徒が蜂起。 豊原寺は一向一揆に与し、一揆軍の総帥である本願寺の下間頼照は、ここ豊原寺に本陣を置いている。
天正3年8月、信長は一向一揆討伐のための軍を率いて再び越前に侵攻、敦賀から10万余の軍勢で攻め込んだ信長は、一向一揆を破り追撃し、龍門寺に陣を構え殺戮を繰り返えしたが、これは序章にすぎなかった。
連日各地で徹底した捕獲作戦が行われ、捕らわれた者は小姓達に命じその首を切り落とし、その結果犠牲になった男女は3万とも4万とも言われ、悲惨なものとなった。
信長はこのあと、残党狩を行いながら本陣をこの豊原寺に移す。
この時、たまたま奈良興福寺大乗院の尋憲が信長を訪ね、その時の模様を日記に書いている。
それには、討ち果たした一揆の数を数えるため鼻をそいで持ち帰っていることや、その日生け捕った二百人をつぎつぎと処刑している場面に出くわし、歎いている様子が書かれている。
信長は、9月2日、豊原寺から一時北ノ庄に出て、北ノ庄城の普請を命じるとともに、論功行賞を行い、柴田勝家を北ノ庄に置き越前八郡を与えるとともに、大野郡を金森長近と原彦次郎に、府中の周囲二郡を不破光治、佐々成政、前田利家の三人衆に与た。
こうして越前は柴田勝家の時代へと入っていくことになる。
なお、一向一揆の拠点であった豊原寺は坊舎を含めすべて焼き払われた。
豊原寺跡へは丸岡町田屋から行くことができる。 『朝倉始末記』に登場する華蔵院の跡や講堂跡(伝)が残り、さらに講堂跡付近の石段を登っていくと白山神社(権現山)に至る。
中心部に至る細い道の両側には見応えする石積みが残っており、周辺は山林で判りにくいが僧坊跡の段丘もひろがっている。
【龍門寺城跡】
【豊原寺跡】