戦国の姫たちの
越前・若狭



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番外編2 賤ヶ岳の戦い

本能寺の変後の主導権争い
柴田神社(北ノ庄城址)
 天正10年6月本能寺の変で織田信長が自刃した後、信長の後継者と遺領配分について決めた清洲会議で、信長の後継者は嫡孫三法師、遺領配分では、秀吉は播磨に加えて山城、河内、丹波を、勝家は従来の北国に加えて、機内への通路としてこれまで秀吉が領していた長浜を押さえた。信長の妹のお市(浅井長政室)は、勝家のもとに再嫁することが決まり、三人の娘(茶々、初、江)ともども北ノ庄に赴いた。
 しかし、織田家中での主導権争いは次第に激化、柴田勝家と羽柴秀吉の対立は深まった。勝家は反秀吉同盟の強化を急いだが、秀吉は勝家が雪のため越前から身動きできない12月に長浜城を包囲し、降伏に追い込み湖北を奪還、また、反秀吉の岐阜城の信孝、長島城の滝川一益を攻撃し、反秀吉同盟の切り崩しにでた。


勝家北ノ庄出陣
両軍布陣図
 天正11年3月、北国の雪解けを待って、勝家は佐久間盛政、前田利家、不破勝光、金森長近らを従え越前北ノ庄を発って近江柳ケ瀬に本陣を構えた。その兵力は28,000といわれている。
 柴田軍は直ちに城砦の構築にとりかかり、勝家は本陣を内中尾山(玄蕃尾城)に、行市山には佐久間盛政、少し南の別所山には前田利家、利長父子、そこから東の北国街道に向けて徳山秀現、金森長近、不破勝光らが陣を築いた。
 秀吉方は、北国街道を押さえる東野山に堀秀政が、余呉湖北側の最前線に砦を築くとともに、余呉湖東の尾根筋大岩山には中川清秀、岩崎山には高山右近、余呉湖南の賤ヶ岳に桑山重晴、更に本陣として田上山に秀吉弟秀長が陣を敷いた。

秀吉、美濃へ向かう
   柴田軍攻撃路
 戦局は容易に動かなかったが、勝家の近江進出に対応して、北伊勢で滝川一益が、美濃では岐阜城の信孝が動きを活発化させたため、秀吉はこの動きを封じるため、4月16日本隊を率いて美濃へと向かった。
 この動きをいち早く察知したのが佐久間盛政である。秀吉本隊が不在であれば、余呉湖東の中川清秀が守備する大岩山砦の攻撃は容易で秀吉陣営に楔を打ち込むことができる考え、玄蕃尾城本陣の勝家を訪ね、奇襲攻撃の作戦を進言した。
 勝家は、敵陣に中入れするこの作戦に、容易に同意しなかったが、ついに根負けして「大岩山砦を落としたら速やかに帰陣する」ことを条件に許可した。
 奇襲攻撃の総大将は佐久間盛政として8千の兵がこれに従い、勝家自身は北国街道に出て今市の狐塚に進出し東野山城の堀秀政の軍勢にあたり、前田軍が茂山に進出して余呉湖北側の秀吉軍を押さえ、更に柴田勝政が賤ヶ岳西の飯ノ浦切通しの上に陣を置き、奇襲部隊を援護することとした。

佐久間軍奇襲敢行、大岩山砦を落とす
大岩山砦跡
 4月20日の夜中に一斉に行動が開始された。前田軍が茂山に進出、佐久間盛政の率いる部隊は権現峠に出、ここから権現坂を下り、余呉湖畔を通り大岩山砦に向かった。柴田勝政は権現坂で盛政と分れそのまま尾根伝いに飯ノ浦の切通しまで進軍した。
 夜明けと共に佐久間盛政の部隊が大岩山の中川清秀の攻撃を開始、戦いは中川軍の奮戦で激しいものとなったが、多勢に無勢で最後は清秀の自害で幕を閉じた。奇襲が大成功し、さらに賤ヶ岳を含む余呉湖周辺を押さえれば、秀吉軍を窮地に追込むことができると考えた盛政は、勝家との約束に従わず兵を退かなかった。

秀吉、美濃から近江へ戻る
秀吉軍の事実上の本陣であった 田上山城址
 一方、大垣にいた秀吉のもとに大岩山砦の陥落と中川清秀討死の報がもたらされたのは20日の昼ごろであったされる。秀吉はこの報に接すると、直ちに近江への引き返しを決断した。秀吉が大垣を出たのが午後2時であり、主力本隊が出発したのが午後4時を過ぎていた。大垣と木之本の間は13里(約52km)ある。大部隊の移動には相当の時間が必要であるが、各部隊は大垣を出発した後はひたすら走り続け、5時間で木之本に着いたと言われる。日が暮れてからは沿道には一斉に松明が焚かれ、途中いたる所に握り飯や水が用意されるなど、秀吉の用意周到さは他の追随を許さないものであった。まさに中国大返しの再現であった。

佐久間軍の撤退
柴田勝政は飯ノ浦の切通しの上に 陣を構えた
 秀吉の帰還を知った盛政が兵に退却の命を出したのが、4月20日の午後の11時であったとされる。攻撃と逆のルートを辿っての退却で、賤ヶ岳の麓を通り余呉湖の西岸をめざしたが、秀吉軍の追撃で激戦となったが、佐久間軍の殿(しんがり)部隊は交互に退きながら秀吉軍と交戦しこれを翻弄し、また飯ノ浦に陣を構えた柴田勝政も懸命に盛政軍の退却を支援したため、結局盛政軍は大きな犠牲をうけることなく権現坂まで退却に成功し、秀吉も一旦兵を収めざるをえなかった。

余呉湖畔の戦い(賤ヶ岳七本槍)
激戦となった余呉湖西
 しかし、佐久間盛政軍の退却を支援した柴田勝政の軍が飯ノ浦に取り残されて居ることを秀吉は見逃していなかった。柴田勝政が撤退を開始するのを待っていたのである。予想通り、盛政の本隊の無事撤退を見届けた勝政軍は盛政軍に合流すべく権現坂に向けて退却を始めた。ここぞとばかりに秀吉軍は総攻撃を開始した。勝政軍の苦戦という状況を見て、盛政は一旦退いた本隊を再び勝政救援のため余呉湖畔へ向かわせた。現在の国民宿舎余呉湖荘付近から川並集落付近にかけての余呉湖畔は両軍大激戦となり、湖畔は赤く染まったという。世に言う「賤ヶ岳七本槍」など秀吉方戦功は、ほとんどこの余呉湖畔の戦いで立てられたものである。
 盛政自身も湖畔に向かおうとしたまさにその時、信じられない事が起きたのである。

前田軍の戦場離脱
賤ヶ岳古戦場碑
 茂山で佐久間軍の後背を守り、秀吉軍を牽制する使命を担っていた前田利家、利長父子が突然塩津方面へ山を下って兵を退きあげたのである。
 勝家軍からすれば「裏切り」以外の何者でもない。しかも、前田軍の逃亡を見た金森長近や不破勝光らも一斉に戦場を離脱、このためこれまで動けずにいた余呉湖の北に布陣する秀吉軍も余呉湖畔に出撃して後背から佐久間軍に襲いかかり、佐久間軍は大混乱に陥ったのである。
 こうなっては佐久間軍の態勢の立直し不可能で、柴田勝政も戦いの中で不明となり、盛政も戦場を離脱し塩津方面に逃れざるをえなかった。

孤立した勝家本隊
毛受兄弟の墓
 玄蕃尾城から狐塚に進出した柴田勝家本隊に、佐久間軍敗退の報が届き、秀吉軍の包囲網が迫ると、勝家方の兵は動揺し、逃亡するものも多く、兵力は減少し、もはや秀吉軍に決戦を挑むことすらできない状況に陥っていた。討死の覚悟を決めた勝家だが、家臣の毛受勝照が懸命に諫めた結果、側近とともに栃木峠を越えて越前に逃れた。
 その間、金の御幣の馬標を受け取った毛受勝照は、身代わりとなって僅かの兵で秀吉の大軍を惹きつけ奮戦し、全滅した。
 勝家は、府中(武生)では、前田利家の元に立ち寄り、利家の裏切りを責めることもなく、永年にわたる利家の友誼を謝し、お市の待つ北ノ庄城に戻り籠城の準備をした。


秀吉軍の北ノ庄攻撃、勝家自刃
戦前期の北ノ庄城址 一方秀吉も勝家を追って越前に侵攻し、府中では前田利家の降伏を受け入れ、利家親子を先鋒として北ノ庄城に進撃し、城にたて篭る勝家を包囲した。
 勝家の北ノ庄城は、信長の安土城に匹敵する豪壮な城で青光りする笏谷石で九層という壮大な天守閣が築かれていたとされる。
 4月23日、愛宕山(足羽山)に本陣を置いた秀吉は、総攻撃を開始、豪壮な城もその日のうちに本丸を残すのみとなった。落城を覚悟した勝家はこの夜に重臣達と別れの宴を開いたとされる。翌24日(6月14日)最後の時を迎え、妻のお市を殺し自ら九重の天守閣に上がり、自刃した。
 なお、落城の前にお市と浅井長政との間に生まれた三姉妹は秀吉に引き渡され、その後秀吉の庇護を受けた。