戦国の姫たちの
越前・若狭



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姉川の戦い

信長軍、小谷へ進出

 信長の越前侵攻は、簡単に進展したわけではない。最初の侵攻ともいうべき元亀元(1570)年の金ヶ崎攻撃は、予想もしない義弟浅井長政の離反で失敗、命からがら京へ逃げ戻る羽目に陥っている。
 世に言う「金ヶ崎の退き口」である。信長が京に辿りついた時、その供回りは10人程度であったといわれている。

 一旦岐阜に戻った信長は報復に燃え、直ちに江北の浅井氏討伐の準備にとりかかる。徳川家康にも援軍を要請し、6月19日岐阜を出発、近江と美濃の国境にある苅安城、長比城を落とし、6月21日大軍で浅井氏居城小谷城の眼前に在る虎御前山(八相山)に陣を構えた。信長は、北国街道を挟んで小谷城の真ん前に着陣したわけで、その意気込みは相当なものであった。
 小谷城の南の虎御前山(八相山)は、標高220m余の独立丘陵である。城郭跡も残っているが、その遺構の殆どは、姉川の戦い以降の浅井軍・織田軍との抗争時のもので、この時は大がかりな築城はなく、陣を敷いたにとどまっている。

 信長は、小谷城下に火を放つものの、小谷城の浅井軍は朝倉軍の援軍到着を待って動かなかった。また、小谷城は浅井氏が三代にわたって整備を重ねた堅城で、城攻めも大きな犠牲が予想された。

信長、横山城へ転戦

 このため、翌日信長は、姉川の南に位置し、浅井氏が守る横山城を包囲するため、一旦虎御前山から退却を開始する。この様子は小谷城からは丸見えで、当然ながら浅井軍は追撃に打って出た。その数は兵600であったとされる。浅井軍は奮闘したが、織田軍はこれをうまくかわし、姉川の南にあたる竜ヶ鼻(橫山城の北)に着陣した。

 横山城は姉川南の横山丘陵(臥竜山)の最高所(312m)に築かれた城で、三方の尾根伝いに遺構が残されている。関ヶ原から浅井氏の小谷城へ通じる北国街道のすぐ脇に立地し、小谷城にも近く、浅井氏にとっては重要な拠点であった。

 信長が本陣とした竜ヶ鼻はこの横山丘陵の北端にあたる。織田軍は24日から横山城を包囲し東西南北から攻撃にとりかかった。27日には援軍徳川家康も竜ヶ鼻に到着し合流した。

北陸道から見る小谷城址看板

小谷山(右)と虎御前山(左)の間を北国街道が通る

横山城遠景

龍ヶ鼻登り口

朝倉軍、小谷到着

 一方浅井軍の援軍である朝倉軍も朝倉景健を総大将に8,000の兵を率いて小谷城下に到着、小谷城の東南に位置する大依山に布陣した。現在の浅井歴史民族資料館の後背にあたる。
 浅井長政も横山城を支援するため、小谷城を出て26日、大依山の朝倉軍に合流した。横山城の見晴らしは良く、城を守備する浅井軍には、朝倉・浅井両軍の動きは士気を高めたはずである。
 結果、姉川の南で浅井の橫山城を包囲し睨む織田・徳川軍、それを小谷東南で姉川北側の大依山から睨む朝倉・浅井連合軍という布陣となった。

 ところが、27日になると朝倉・浅井軍が陣を畳み始めた。信長方は、最初は朝倉軍の撤退と見ていたが、朝倉・浅井軍は逆に南進して姉川北側に布陣し始めた。
 これを見た織田・徳川軍も「まわれ右」をして姉川南に布陣、28日、姉川を挟んで野村・三田村合戦(姉川の戦い)での激突となるのである。

戦いの評価

 「姉川の戦い」の評価も近年大きく変わった。
 江戸時代に作られた書で、織田方は13段構えのうち11段まで浅井軍に崩され、一歩間違えば総崩れの瀬戸際に追い込まれるが、家康が朝倉軍の側面攻撃を命じ、この結果朝倉軍は総崩れ、ついに浅井軍も総崩れとなり、織田・徳川軍の大勝利 で終わったことになっている。これは後世に家康神格化のために誇張されたものであろう。

 戦いも両軍の全面衝突説から、朝倉・浅井軍による奇襲攻撃説、戦果も最近は「五分五分の引き分け」説、極端な説では「まったく戦況に影響しなかった戦い」まで様々であるが、徳川軍の奮闘で織田・徳川軍の大勝利は「誇大宣伝」 とする点では大体一致している。
 確かに信長が細川藤孝に出した書状では「野も田畠も死骸計に候」と大勝利を謳っているが、当時は負けても引き分けても「勝利」を宣伝するのは当たり前で、書状の内容だけでは根拠は薄い。山科言継のように信長方の宣伝を鵜呑みにして、 戦死者「浅井9,600、朝倉5,000」と、その数が動員された軍勢以上にのぼる記録まである。

 「姉川の戦い」という呼称も徳川のもので、当時は朝倉方は「三田村合戦」、浅井、織田方は「野村合戦」と呼称した。

浅井歴史民族資料館と後背の大依山

姉川現況

姉川古戦場碑

姉川の戦い両軍の布陣と本陣

 まず両軍の布陣を見ておこう。大依山を下って姉川の北に朝倉・浅井連合軍、南に徳川・織田連合軍であるが、現在の姉川にかかる国道365の野村橋付近から東に浅井軍と織田軍が対峙、そこから西側の三田村方面に朝倉軍と徳川軍が対峙するという二手に分かれた布陣となった。総軍勢は資料によって異なりはっきりしないが、朝倉軍は8,000に対して徳川軍は5,000、浅井軍は5,000に対して織田軍は15,000前後ではなかろうか。


 また姉川の戦いで朝倉景紀が第一陣を務めたと、現地の案内看板などで広く紹介されているが、景紀が出陣した記録は無い。このころ景紀は高齢(70才前後)で 、すでに孫とともに隠居生活を送っており、儀典ならともかく戦場に顔を出すことは無かったと思われる。 景健が総大将で、同名衆筆頭の景紀が先陣ということも有り得ない。「朝倉始末記」も「信長公記」も景紀の名を記していない。


 姉川に行ってみると、それほどの大河ではないが、南からは横山城のある横山連峰がせり出し、北には小谷城や虎御前山が見える。横山城の守備兵からは、合戦がまるでパノラマ映画を見るように展開していったのではなかろうかと思われる。


 朝倉軍と徳川軍が対峙した三田村方面では、家康が姉川南(現東上坂町)の小高い丘の岡山(勝山)に本陣を置き、景健は三田の三田村城(館)に本陣を置いたと推定される。三田村城は三田村氏累代の居城で、本丸跡といわれる場所に現在は伝正寺が建っており、高い土塁の一部は損壊しているものの今も残り、濠跡も畑地として残っている。
 一方、浅井軍と織田軍が激突した野村方面では、姉川南(現東上坂町)に信長の本陣跡といわれる陣杭の柳伝承地がある。合戦当日の朝、信長は龍ヶ鼻砦から急遽向きを変えこの場所に本陣を構えたとされる。ここに立つ柳に、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、解説板が設置されている。もともとは今の場所より10mほど北西に位置していたが、平成9年の圃場整備により、3代目の柳から枝を取った4代目が現在地に移植された。


 浅井長政が本陣を置いたのは、野村集落附近で、近くには陣田や陣屋橋などの本陣を思わせる地名が残っている。「陣田」は小高い丘として、浅井長政の本陣跡と長く伝えられてきたが、この丘も圃場整備で現在は残っておらず、解説板が設置されているのみである。

戦いの概要

 28日早朝、戦いの火蓋が切っておとされた。朝倉軍が徳川方に攻め込み初戦を有利に展開すれば、浅井対織田の戦線においても浅井軍の先方が織田軍に猛攻を加え、織田の第一陣は崩れ、乱戦のなかで浅井軍の奮闘が目立った。しかし 、横山城を包囲していた織田軍の各部隊が、遅れて姉川に到着し、新手の軍勢として浅井軍を側面から攻撃すると、後半は織田・徳川軍優位に戦局は展開した。別に徳川軍の働きによるものではないであろう。


 前半は朝倉・浅井有利、後半は織田・徳川有利に展開し、織田・徳川優位で引き分けたとみるのが妥当であろう。両軍とも戦死者を出し、朝倉・浅井軍は小谷城に引き上げ、織田・徳川軍も小谷城下に深追いせず、城に攻め込む余力は残っていなかったのが実情であろう。

朝倉景健本陣三田村城(館)跡

徳川家康本陣 岡山(勝山)

浅井長政本陣跡附近(陣田)

長政本陣近くには陣屋橋など本陣に因んだ名が残る

織田信長本陣伝承地(陣杭の柳)

【周辺地図】

戦いの真相(1)-遠藤直経の奮闘

 実際の戦いはどうだったのであろうか。
 きっかけは浅井、朝倉軍の奇襲攻撃であった可能性が高いと考えられる。一気に大依山より南下し、横山城を包囲攻撃していた織田軍に向かったため、織田軍はUターンして朝倉、浅井軍に立ち向かわざるを得ず、結果として信長本隊がこの戦いの最前線に立たされるはめに陥ったと考えられる。信長軍は十分な陣形を整える時間がなかった。これが初戦で織田軍が大苦戦した原因であろう。

 織田軍の苦戦を物語る根拠として、地元の郷土史研究者は、浅井軍の先鋒で信長軍に突入した遠藤直経の討ち死に場所を指摘している。現在の東上坂町の水田地帯には、字名で「円藤(遠藤)」と、直経の墓といわれる「遠藤塚」が伝えられている。こちらも圃場整備事業のため、現在では40m南に移って墓碑が建立されているが、その位置は信長の本陣よりも南に位置し、浅井軍に攻め込まれ信長本陣は相当後退を余儀なくされたことを示している。

 遠藤直経は小谷城下の清水谷に居館を有す浅井氏の譜代の家臣で、浅井長政の傅役的存在として長政の信頼は厚かったとされる。姉川での先制攻撃も直経の策とも言われ、果敢に攻撃し、織田の武将に成りすまし信長に迫ったが、竹中重治の弟・竹中重矩に見抜かれ、失敗、討ち死にしたとされる。その場所が遠藤塚とされている。

戦いの真相(2)- 朝倉対徳川

 朝倉、徳川が対峙した三田村方面では、大きな戦闘はなかったとの説も出されている。

 戦死者をみてもいわゆる重臣、有力家臣クラスの死傷者は朝倉氏側にも浅井氏側にも殆どおらず、大太刀を振う真柄十郎左衛門直隆の討死にが誇張されて伝わるのみである。ただ戦死者がなかったわけではなく、一乗谷では元亀元年6月28日の銘文が記された石塔や石仏が散在している。もっともこれらは姉川での戦闘ではなく、地元の郷土史研究者が主張するように小谷城へ退却する途上で追撃されたものと考えられる。戦跡が姉川の北岸に多いのもこのためである。

 越前側では敗北したとの意識を持っていなかったのは事実で、戦局自体に大きな影響は与えなかったのではなかろうか。
 「朝倉始末記」の後半は朝倉氏の滅亡を描いているが、もしこの戦いが大敗北で、大きな意味を持っていたなら、恰好のテーマとしてとりあげたに違いない。しかし、「始末記」の扱いは素っ気無いもので、信長の敗北と朝倉・徳川の戦いでは徳川の奮戦で互角の戦いとなったこと、朝倉側の死者数120と記すのみである。始末記はこの戦いでの信長勝利を記していない。

遠藤直経墓

遠藤直経屋敷跡(清水谷)

姉川北岸血原塚碑

真柄十郎左衛門墓(越前市)

戦いのその後

 両軍に少なくない犠牲がでたことも事実であるが、信長は小谷城へは攻め込めなかった。しかし横山城の守備兵が退城した後これを奪取し、木下秀吉を城番として置き、浅井氏の監視にあたらせた。横山城を守っていた大野木秀俊や三田村国定、野村直元らは小谷城に入った。
 織田方は浅井方の佐和山城も囲むが、しかし、織田方の兵の消耗も激しく、力づくで落とすことはこれも無理で、断念せざるをえず、信長は重臣丹羽長秀をこの地に置き対峙させた。
 それでもこの結果、信長は春の越前攻めで逃げ帰った「敗軍の将」のイメージを払拭することには成功したと見るべきで、盛んに「勝利」を宣伝してまわり、一旦上洛した後、岐阜に戻った。
 宣伝戦では間違いなく信長の勝利であった。

 姉川の戦いので信長に勝利出来なかったことを知った朝倉義景は、直後の9月、義景自らが兵を率いて一気に湖西を上り、京を目指し信長を追い詰める。
 16日、姉川の戦いで先鋒を務めた景健は、今度も先鋒で京の入り口坂本に着いた。「志賀の陣」のはじまりである。ここ坂本は信長の重臣森可成(蘭丸の父)が宇佐山城を守っていた。19日朝倉・浅井軍は宇佐山城の攻撃態勢を整え、一方の信長方も信長弟織田信治が京より下り守りを固めた。そして20日織田軍と朝倉・浅井軍とのあいだで坂本合戦が展開される。結果宇佐山城主で信長重臣森可成と信長弟織田信治は戦死し、朝倉・浅井軍の一部は翌21日京に進出し山科、醍醐方面を焼き払い洛中に進攻した。

 各地の反信長陣営の信長包囲網が強まる中、京に戻った信長は、戦局打開のため物流の拠点堅田に軍勢を入れこれを固めんとするも、11月26日朝倉・浅井軍がこれを攻撃、大激戦となるなか、織田軍の将坂井正尚を討ち、犠牲をだしながらも奮戦し、堅田は朝倉軍の占領するところとなった。
 窮地にたった信長は、天皇や将軍に働きかけ朝倉氏と和睦し、岐阜に帰るも、信長にとっては「金ヶ崎の退き口」についで対朝倉戦での2度目の敗北であった。

 しかし、信長の各個撃破の戦略のまえに反信長陣営は次第に切り崩され、元亀4(1573)年は朝倉氏、浅井氏とも滅亡の年となる。

佐和山城大手口

坂本合戦の舞台となった宇佐山城登り口

堅田湖畔現況